概要
生い立ち
10才のとき動物のものまねでフジテレビの素人参加番組にテレビ出演。その時のADが後に笑っていいとも!のプロデューサーとなる横澤彪だった。早くから芸人を志し高校へ進学するつもりだったが、家庭の経済事情で授業料の安い公立高校しか行けないと言われた。中学3年生の時、成績が下から2、3番だったが、夏休みの1ヶ月間で小学校6年生の教科書からやり直し上位10番に入る。無事東京都立竹台高等学校に入学し演劇部に所属、3年次には部長を務めた。
デビュー
ゲスト出演した文化放送『くにまるワイド ごぜんさま?』でのインタビューによると、高校卒業後、役者を目指し、清川虹子の所へ何のあてもないままいきなり訪問し、弟子入りを志願したが、清川の付き人から「男の付き人は採らないから」と断られ、何とか弟子入りは許してもらえるだろうと思っていた目論見が崩れ、生活の為しばらく土木作業員等の仕事を経験した後、声帯模写の片岡鶴八に弟子入りする。声帯模写で東宝名人会や浅草松竹演芸場などの舞台に出演するようになる。
師匠である片岡鶴八は、「声帯は人によって違う。だから、君に僕の芸はそのまま教えられない。」と、芸を教えてもらえなかったという。しかし、そば屋に連れて行ってもらった際、そばの食べ方の手ほどきを受けたり、「芸人として売れるまで、そば屋ではもりそばしか食べてはいけない」と、芸人としての「粋」を教えてもらったという。その師匠は、もりそばを食べる鶴太郎の目の前で江戸前の天丼を食べていたが、これは「早く売れる芸人になれよ」という師匠なりの激励であった。鶴太郎は、師匠の懐の深さを知り、「いつかは師匠と天丼を食べたい。」と決意するが、不幸にも売れ出した頃に師匠は亡くなってしまう。
岡鶴太郎の芸名でトランポリンの地方興行を行う。しかし、このままで終わってしまうと脱退。地方の温泉旅館で司会やものまねの仕事につく。旅館の老人には小森のおばちゃまのものまねはウケなかったが、鶴太郎の才能を理解してくれた座長の娘さんと上京、結婚した。
全国区の人気
その後、漫才ブームの仕掛け人となった横澤と再会。片岡鶴太郎の芸名でテレビに進出する。お笑いタレントとして『オレたちひょうきん族』のコーナーで近藤真彦のものまねにより一躍脚光を浴び、その後も九官鳥の「キューちゃん」のマネや浦辺粂子のものまねもしていた。当時は贅肉が多い体型で、熱いおでんを無理矢理食べさせられて大げさなリアクションを繰り出す、被虐的なキャラクターだった。そのため、片岡鶴太郎がリアクション芸人の元祖だとの声もある。
また今でこそその芸風は払拭され全く見られないが、下ネタに関するトークなどをオールナイトフジでは多く露出し(おまるの中にかりんとうを入れて示すなど)、特に同番組内の”鶴太郎劇団”という寸劇を行うコーナーではよく女装をし(逆に共演の女子大生が男装)絡みのシーンを演じたり、はたまた劇の最後のオチでお決まりの全裸を女子大生に見せ付けるといった(井手らっきょもこの鶴太郎の芸風に影響を受け全裸ネタを用いたと後に説明)見るに耐えないキャラクターでもあった。「アブラギッシュな男No1」という不名誉な称号を得たのもこの頃である。
お茶の間に定着して以降、物まねではとりわけ老けキャラの開拓を得意とし、小森和子、浦辺粂子、坂上二郎など多数。後年にも、宮路社長や横山弁護士ら、話題の人物を好んで演じてみせた。持ち前の器用さから、バラエティ番組の司会やトークも数多くこなし、1986年には片岡の造語「プッツン」が新語・流行語大賞の流行語部門・大衆賞に選ばれた。